休日の屋根裏

Nゲージを中心に。たまに撮り鉄

「僕」が鉄から離れた日 後編

「結論から言うと、進路は変更した方がいいと思うよ。」

中学3年のたしか6月頃、担任の先生との3者面談の場。

将来、鉄道関係の職業を目指していた私は、進路希望を担任の先生に相談し、色々と調べてもらっていました。平成元年初夏の頃。小学生の頃から温めていた夢に、ブレは無かった。

両親も後押ししてくれたが、一つだけ気になっていた事があったのだ。
小学4年生の時に引っかかった「色覚検査」。

当時は検査は必須であって、現在は自治体により任意らしいが、様々な色の細かい大小の点が集まった表を見て、その中に隠れている数字や図形を答えるものである。

検査の際、簡単に分かるものもあったが、一部、どうしても分からないものがあり、自分ともう一人が要検査となってしまった。他の人が簡単に数字を言っているのに、なんで自分は見えないの?と単純に不思議な気持ちでした。

眼科に行き、検査を受けると先天性「赤緑色弱」との診断が。
日本人の男子では約5%の比率で存在するらしい。赤・緑系の色は普段は普通に見分けがつくのですが、細かい点になったりすると赤と緑の区別がつきにくく、他にもピンクと薄いグレーなどが判別しづらいケースもあります。基本、治療法はありません。

日常生活では特別支障はないのですが、会議資料の構成比グラフなどの色分けが区別しづらい色があり、分からない時もあります。

その診断を受けていた事を、進路選択にあたり、担任の先生に調べてもらっていたのだ。鉄道会社などに直接問い合わせて頂いたりとお世話になりました。
当時はネットなどの情報も無く、自分で調べる事も今ほど出来ない頃でしたので、冒頭の先生の言葉は15才の自分にとっては大きな衝撃となり体を突き抜けました・・・。涙も流れないほどショックでした。

先生曰く、鉄道専門の高校・専門学校などの入学には全く問題ないが、就職に就く際にほぼ全ての鉄道会社が色覚異常者の採用をしていないとの事。
いざ就職の時に門前払いになってしまうとの事です。

「分かりました」
当時の自分は素直に受け止め、鉄への道を断念しました。
本当はショック過ぎてその後の記憶はあまり覚えていないのですが、手持ちの鉄道雑誌をそそくさと処分したとの事です。部屋の車両ポスターも外したりと・・・。

はっきり覚えているのは、このまま「鉄」を追いかけたら、自分が悔しくて潰されそうな気持ちがありました。なので鉄とは真逆な方向に必死で走る自分がいました。
「かなえたくてもどうにもならない事がある」そんな事実を知った平成最初の夏。

方位磁針を失った船の様にフラフラと、そんな高校受験でした。
地元の公立高校に進学し、興味も色々新たに発見し、素晴らしい仲間とも出会いました。
鉄への未練もなく、グレずにいられた事はこの仲間たちのお陰であるとも言えます。

小学からその年まで集めたNゲージの線路や車輌は押入れの奥にしまってありましたが、大学1年の頃、幼馴染に全てあげてしまいました。(とっておけば良かった・・・・)

ほんと、非鉄時代は踏切で北斗星なんかが通っても特別なにも感じないレベルにまでなっていました(笑)。家のすぐ近くで晩年の寝台特急はくつる」が最後の活躍をしていた時期ですが、もちろんノーマーク。なんてもったいない事をしたのだろう・・・。

それから時は流れ、就職し、結婚し、子供が出来ました。上は娘でしたが、その後長男が生まれ、一気に私は鉄に引き戻されます!!

プラレールやら何やら沿線に電車を見に行くやらで「これはEF65っていうんだ」とか、昔好きだった車両がまだまだ活躍していたりと嬉しくなりました。
またネットの世の中になり、現在の鉄道状況を調べたりするうちに、はい、完全復活!

今は息子は全く鉄に興味なく育っております(笑)。

現実を受け止め、現状から必死に逃げたあの頃。
人生のポイントは切り替わりましたが、進んだ道での出会いなど、全く後悔はありません。

ただ、新幹線など乗車したりした際に、もしJRに入社出来ていたら今頃新幹線の車掌くらいだったのかな?と勝手に考えていたりします。


そして悩んだあの日も、今日も、そしてこれからも鉄道は走り続けます。なんちゃって!
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人生のレールの行き先は・・・。(2017年秋 いすみ鉄道 踏切にて撮影)

以上、「僕」が鉄から離れた日でした。
個人的内容な長文お付き合いありがとうございました<m(__)m>